市川典男(象印マホービン㈱)社長の経歴は?家族は?【カンブリア宮殿】

スポンサーリンク

こんにちは。
管理人のピリカです。

量販店に並ぶ炊飯器。
いろいろなメーカーがありますが、
老舗のメーカーといえば象印マホービン㈱ですよね。
「マホービン」という名称も面白いですよね。

今回のカンブリア宮殿では、
象印マホービン㈱の代表取締役 社長執行役員
市川典男さんについて調べてみました。


出典:https://www.leaders-award.jp/2021/entry8a2zb.html

市川典男さんの経歴は?

市川典男 (いちかわ のりお)さん
生年月日:1958年5月10日生まれ
出身地 大阪府八尾市
出身校 甲南中学校・高等学校卒業(野球部)
1981年 甲南大学経済学部卒業

市川典男さんは、八尾市にあった工場の敷地内に自宅があり、魔法瓶に囲まれ、工員さんたちにかわいがられて成長したと言われます。

市川典男さんは、芦屋市にある男子校の甲南中高学校を卒業しています。
中学では、硬式野球部に入部したものの、レベルの高い野球部では選手になれず、選手のサポートをするようになり、高校では、マネージャーとして活躍していたそうです。

そのサポート能力を先輩に認められ、先輩から「大学進学後も主務として残ってほしい」と声がかかり大学ではテニス部の主務(マネージャー)をしてほしいと言われ、受けたそうです。
大学3年の時に全国大会で優勝したそうですが、市川典男さんは、日本一の主務になったということですね。

「主務」とは、スケジュール管理や学内外との連絡、交渉、経理、時にはメディアの取材依頼にも対応するなど、プレー以外のことをすべて担うそうです。

市川典男さんは、大学在学中にアメリカのサンフランシスコに2年半留学をしていたそうです。
日本に帰ることが決まった時、自分の車でアメリアを一周したそうです。
そしてそのあと、ヨーロッパに行ってから日本に帰ってきたそうです。
俗にいう「お坊ちゃん」だったんですね

1981年、大学卒業とともに象印マホービン株式会社に入社したそうです。

市川典男さんが、最初に配属されたのはシステム開発の部署だったそうです。親族だから、管理部門からスタートということではなかったのようです。

この部署で学んだことは、「真因を見抜くことの大切さ」だったそうです。この経験は、のちにとても役にたったそうです。

 

なかでも勉強になったのが、真因を見抜くことの大切さです。システムに問題が生じた時、その原因となるバグを見つけただけでは解決とはなりません。なぜそうなったのか、工程を段階的に遡る必要があり、そのバグが織り込まれた真因に辿り着くまで深掘りの手を休めてはならない。これはどんな仕事をするうえでも言えることですし、仕事を離れても心に留めておくべきことだと思います。
出典:https://www.leaders-award.jp/2021/entry8a2zb.html

2001年、市川典男さんは、叔父の市川博邦氏より後継指名を受け就任されたそうです。

市川典男さんの家族は?

市川典男さんは、象印マホービン株式会社の4代目の社長ですが、
3代目は、叔父にあたる市川博邦氏
2代目が、父親の市川重幸氏
初代が、祖父の市川銀三郎氏

代々創業家が社長になっているようですね。

市川典男さんの家族は、妻と息子さんが二人だそうです。
妻は、早嶋律子さんで旭屋書店社長 早嶋健の長女だそうです。
息子さんは、双子(1988年生まれ)だそうです。

スポンサーリンク

社名にある「マホービン」って?

象印マホービン株式会社のマホービンってなんでしょう?

マホービンは、魔法瓶と書きます。
魔法瓶とは、内びんと外びんの二重構造でその間を真空状態にすることにより熱の移動を防ぎ長時間保温・保冷できるようにした容器のことです。
ガラス職人が「手吹き」という方法で内瓶・外瓶を二重に成形し、その間にメッキを施したうえで真空引きして「中瓶」を作っていましたが、日本酸素(現サーモス)が、国産初の高真空ステンレス魔法瓶(携帯用)を開発、発売。魔法瓶業界はこのステンレス製へ変貌していきました。

まとめ

市川典男さんは、創業家として生まれたときから、工場内に家があったころから、魔法瓶に囲まれて、父親の後ろ姿を見て大きくなったそうです。会社に入ってからは、現場でいろいろ体験したことが社長になってから生きていると言っています。
会社を継ぐのが当たり前だったそうですが、ご自身のお子さんたちには、それを求めず、よい人材を探し、会社の存続のために仕事をしているそうです。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
一般
pirika-nonnoをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました