吉本頴右(亀井エイ子の父)の経歴は?笠置シズ子との関係は?【NHK朝ドラブギウギ】

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こんにちは。
管理人のピリカです。

NHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」のモデルとなった
笠置シズ子さんには、亀井エイ子さんというお子さんがいらっしゃいます。
ドラマでは、そろそろ亀井エイ子さんの父親となる方が
出てこられそうですね。

モデルとなった亀井エイ子さんの父親吉本頴右は、
どのような方だったのでしょうか?
経歴や笠置シズ子との出会いなどを調べてみました。

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吉本頴右(亀井エイ子さんの父親)の経歴は?

吉本頴右(よしもと えいすけ)
吉本興業創業者の吉本せの次男として
大正12年(1923年)10月26日 に生まれます。
当初、吉本泰典 と命名されたが、
のちに頴右(えいすけ)と改名します。

兄弟は、6人の姉とひとり兄がいました。
兄と6人の姉妹はいずれも早逝していたので、
頴右(えいすけ)は、実質長男のような存在でした。
また、吉本せいのただ一人の子どもでしたので、
吉本興業の後継者とみなされていました。

大学は、早稲田大学
のちに笠置シズ子は、出会ったころの吉本穎右のことを
「眉目秀麗な青年」「非常に心の優しい、フェミニスト」
と自伝に記していたそうです。

吉本穎右は、18歳のときに肋膜炎で入院し、
戦時中は大学の同窓生の多くが学徒動員で
徴兵されていたのにも関わらず、
穎右は健康問題から徴兵不適となっていて
出征はしていなかったようです。

戦後、穎右の母親の吉本せいが体調を崩して、
吉本頴右は、吉本家から「帰ってきなさい」という要請を
何度となく受けていたようですが、
なかなか帰阪しなかったようです。

吉本穎右は、1946年(昭和21年)6月に帰阪して、
そのまま大阪で、昭和22年(1947年)5月19日に亡くなります。
享年24歳。

吉本穎右と笠置シズ子との出会い

1943年(昭和18年)4月に笠置シズ子
名古屋で公演中だった先輩役者の楽屋を訪ねます。
そこで大学生だった吉本穎右と出会います。

穎右はかねてからのシズ子の大ファンだと
自分を紹介したそうですが、
吉本興業の社員から正式に紹介されるまでに
2回も顔を合わせていたようなのですが、
まるで初めてあったように自己紹介をしたそうです。

翌日に笠置シズ子は、神戸での公演があり、
吉本穎右も私用で和歌山に行く予定があったので、
一緒に汽車に乗って、関西方面へむかったそうです。
汽車の中で二人はずっと差し向かいの席に座って話し込み、
笠置シズ子は、吉本穎右のやさしさと会話でうかがえる
鋭い人物観察に好意を抱くことになったそうです。

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笠置シズ子は9歳という歳の差や、身分の差気にして
吉本穎右を恋愛の対象になるとは考えずに、
最初、弟扱いしていたそうですが、
お互いの家を行き来するうちに、
次第とお互いに惹かれ合うようになっていったそうです。
そして、名古屋ので出会いから1年半経った
1944年(昭和19年)の暮れ恋人となったようです。

その後、吉本穎右は、笠置シズ子と同棲をします。
そして、吉本穎右は、笠置シズ子と結婚するための準備として、
早稲田大学を中退し、叔父の林弘高が吉本興業から分離独立させた
吉本株式会社(東京吉本)に入社します。

シズ子と穎右はけじめをつけるために、
結婚するまでは一旦同棲を解消しました。
笠置シズ子の生涯唯一の恋愛相手となった穎右との同棲は
わずか半年で終わりました。

吉本穎右の娘 亀井エイ子さんの誕生

1946年(昭和21年)12月、吉本穎右は、
笠置シズ子のことを未だ母親のせいに打ち明けることができていませんでした。
吉本穎右は、せいに笠置シズ子との結婚を反対されたときには、
吉本家を捨てて家出する覚悟を決めていたそうですが、
シズ子から妊娠を告げられると、
父親としての自覚から子供の幸せを第一に考えて、
せいや吉本家と対立するような強硬手段を避けることにしました。
その計画を冷静かつ理路整然と説く吉本穎右は、
笠置シズ子に伝えたそうです。

その後は、シズ子のマネージャーの山内が
吉本穎右と協議し、産まれてきた子供を認知してから、
笠置シズ子との入籍については、
時間がかかっても親族と責任をもって話し合って納得させるという
「男の約束」をかわして、シズ子を安心させたそうです。

1947年(昭和22年)1月「ジャズ・カルメン」の公演が始まり、
3月に終演。このとき笠置シズ子は、妊娠中でした。

吉本穎右は公演中に上京予定でしたが、
大阪に帰ってからの多忙がたたって、
吉本穎右は風邪をひいて寝込んでいるとのことでした。
一旦は快方に向かって、4月中には上京できそうだったのですが、
その後には一転して穎右の容体が次第に悪化していきました。

笠置シズ子は、出産日が近づいていたため、
大阪に向かうことはできませんでした。
そして、吉本穎右笠置シズ子に再会することなく
5月19日に24歳の若さで急逝しました。

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笠置シヅ子は、入籍しないまま
吉本頴右が亡くなった数日後の6月1日に子どもを出産します。
子どもの名前は、吉本穎右が決めていたようです。
女の子だったら「エイ子」男の子だったら「静男」

入籍していなかったので、亀井エイ子さんとなったようです。


出典:https://hon-hikidashi.jp/book-person/16842/

吉本穎右は、「吉本静男」名義で通帳を作り、
3万円が入っていたそうです。
その通帳をシズ子に送ったそうです。

当時の3万円は、
大卒公務員のお給料10か月分ぐらいのものだったそうです。

亀井エイ子さんは、
吉本家から引き取る話もあったようですが、
いろいろな手続きがあり、世間にさらされるのが笠置シヅ子は、
かわいそうに思いそのまま育てたそうです。

まとめ

吉本頴右笠置シズ子が付き合った期間は、
短かったようですが、お互いに思いあっていたようですね。
大学まで中退して結婚しようと思った思いは、
笠置シズ子がその後、
だれとも結婚しなかったことからもわかりますね。

24歳という短い人生でしたが、
笠置シズ子と出会ってからは、
充実した人生だったのでしょうね。

 

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