吉本せい(村山トミのモデル)の経歴は?家族は?【NHK朝ドラ ブギウギ】

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こんにちは。
管理人のピリカです。

NHK朝の連続テレビ小説 ブギウギ も折り返しになってきましたね。
主人公の福来スズ子の恋人村山愛助が登場し、いよいよ愛助の母、村山トミが登場します。
この村山トミのモデルとなったのは、吉本興業の創業者吉本せいさんです。

今回は、吉本せいさんについてしらべてみました。


出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E3%81%9B%E3%81%84#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%90%89%E6%9C%AC%E3%81%9B%E3%81%84.jpg

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吉本せいさんの経歴は?

誕生~結婚するまで

吉本せい
明治22年(1889年)12月5日生まれ
兵庫県明石市の米穀商の三女として生まれました。
米穀商といえども裕福ではなく、12人兄弟の4番目でしたので、尋常小学校4年まで終えて大阪船場にあるお店に奉公にでます。
せいは、とても優秀な子どもだったそうです。

奉公先は、とても倹約家(というかケチ)だったので、奉公先では、苦労をしていたようです。

結婚・子育て・嫁姑

せいは19歳になったとき
「箸吉(はしよし)」の次男、吉本吉兵衛(通称:吉本泰三)と結婚します。長男は亡くなっていたので、実質は、跡取りだったようです。
せいは、そこで今度は、姑に嫁いびりをされたようです。
せいの結婚後、不景気となり、「箸吉」の経営は傾き始めます。しかし、夫は、現実逃避から芸能を好み、遊んでばかりでした。

せいは、内職をしたり、働きに出て家計をなんとか支えようとしました。
そのとき、子どもは、二男六女の母でした。
(長男、長女、二女、四女は夭折してしまい、戸籍上は8人の母となっておりましたが、せい自身は10人以上の子がいたと語り残しているので、流産等もあった可能性があります。)

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吉本興業への第1歩

1912年(明治45年)、芸能好きが昂じた吉兵衛は、天満八軒にある「第二文芸館」を買い取り寄席経営を始めました。
貧しい吉本家には買収資金もなく、せいが頭を下げて金策に周り、実家にまで助けを求めて、ようやくこぎつけたようです。(生活するのもようやくだったのにすごいですね。)

1913年(大正2年)に「吉本興行部」を設立しました。
せいは興行主であるにも関わらず、客席の整理や芸人の身支度を手伝いました。
同じギャラをもらうなら、雇い主が親切な方がいいわけで、せいの気遣いに感激した芸人たちは、芸の腕前を磨いてよりよいものを見せることで、恩返ししたようです。

1924年(大正13年)、せいにとって最後の子である二男の頴佑が生まれて間もなく、吉兵衛が亡くなります。37歳でした。その時せいは、34歳。

 

実業家としての吉本せい

せいは、兄弟を呼び寄せ経営に参加させます。実弟の林正之助と後に東京吉本社長となる林弘高です。

せいやその兄弟たちは、昔からある万歳を今風にアレンジして漫才として売り出します。スターは横山エンタツと花菱アチャコの二人。

もともと万歳をしていた花菱アチャコ。
アメリカでの海外経験巡業経験を持ち、チャップリンを真似て口ひげをたくわえ、インテリ気質の横山エンタツ。

いままで、着物を着て和装で舞台に立っていた万歳を洋服を着て舞台に立つ漫才へと変えていきました。エンタツは、まるで新しい芸を作りたいと考えており、吉本の求める条件とまさに一致していたのです。

こうして、その時代のサラリーマンたちに受け、今まで演芸場だけだったものをラジオに出演して全国に広めました。

また、演芸場で冷やしあめを売り出したのも吉本せいの発案だったそうです。

事業が大きくなっても芸人たちを大切に扱い、関東大震災があったときもいち早く救援物資を芸人たちに送ったり、落ち着いた関東の芸人たちを関西に呼び寄せ舞台に立たせたりして芸人を大切にしていたので、芸人たちは、恩を感じていたようです。

1928年(昭和3年)には、関東大震災の被災者への慈善事業の功績も認められ「紺授褒章」を受け、さらに1934年(昭和9年)には大阪府から功績を称えて表彰されています。

1938年(昭和13年)、吉本興業部は吉本興業株式会社となりました。これを機に、せいは一線から引くことを決意します。
同年、せいは二十万円で通天閣を買い取ります。

せいは頴佑の死の3年後、1950年(昭和25)に60才で死去しました。

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吉本せいの家族

吉本せいの家族は
林家の兄弟は、12人きょうだい。
弟に 林正之助(吉本興業株式会社初代社長)
林弘高(東京吉本社長・大泉映画(後の東映)を設立)

吉本せいと吉本吉兵衛との子どもたち
長女:吉本喜代子(夭折)
次女:吉本千代子(夭折)
三女:吉本峰子 大正3年(1914年)1月14日 – 没年不明
後に吉本恵津子と改名。せいの没後、吉本興業の株などを相続。
四女:吉本吉子 (夭折)
五女:吉本幸子 大正9年(1920年)9月3日 – 没年不明
六女:吉本邦子 大正11年(1922年)7月6日 – 没年不明
長男:吉本泰之助 (夭折)
次男:吉本泰典 大正12年(1923年)10月26日 – 昭和22年(1947年)5月19日
後に吉本頴右と改名します。没後に笠置シヅ子との間に唯一の実子・亀井ヱイ子が誕生

8人のうち4人が幼いうちに亡くなったようですね。
また、吉本せいの孫という方がインタビューされていますが、どの方のお子さんかは不明だそうです。

まとめ

吉本せいさんは、吉本興業をほとんど一人で起こして、今の吉本興業㈱へつないでいったようです。小さい頃はきょうだいが多く、はやくに奉公に出され、結婚したら、夫は放蕩で、姑にいじめられます。20歳で結婚して34歳で未亡人になるまでの14年の間に10人近くの子どもを産みながら、事業を起こすというバイタリティには驚きです。
ただ、家庭愛には恵まれなかったのかもしれません。

 

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