こんにちは。
管理人のpirikaです。
令和5年4月から始まったNHK連続TV小説「らんまん」
現在、主人公の妻の候補として姉(本当は、いとこ)や和菓子屋の娘さんなどが登場してきていますが、モデルとなった牧野富太郎の小澤寿衛子との出会いや結婚生活は、どうなんだろうと思い、調べてみました。また、寿衛子の名前のついたスエコザサの由来などもしらべてみました。
小澤寿衛子と富太郎との出会いは?
牧野富太郎の妻は、小澤寿衛子(おざわすえこ)
牧野富太郎は、明治17年に2度目の上京をし、理科大学(現在の東京大学理学部)の植物学教室に籍を置いて研究に没頭したそうです。
下宿をしていた麹町から大学のある本郷への通学の道に和菓子屋があったそうです。そこの美しい娘がのちの妻(2度目の妻)となる小澤寿衛子でした。
小澤寿衛子の父は彦根藩の出で陸軍の営繕部に勤務していたそうですが、若くして亡くなったようで、父亡き後、邸宅手放し、財産も失くしてしまったそうで、母親は子供たちを引き連れて生計をたてるため小さな菓子屋を営んでいたそうです。
牧野富太郎は、酒屋の息子なのにお酒は飲めない、タバコも吸わなかったのですが、菓子が大好物だったので、自然と和菓子屋が気になり、買いにいったのでしょうね。
随筆の中に「自然と菓子屋が目につき、この美しい娘を見染めてしまった。」とあるそうです。
牧野富太郎が小澤寿衛子に一目ぼれしたそうです。
明治23年に二人は、結婚したそうです。
ただ、牧野富太郎は、祖母のすすめで 猶(なお)といういとこを正式な妻として迎えていたそうです。猶は、牧野富太郎の実家の家業を采配して、祖母の看病をし、看取ったりしたそうですが、
祖母が亡くなり、数年後に牧野富太郎と猶は、離婚をしています。
その後、正式に寿衛子が本妻となったようです。
小澤寿衛子と富太郎の結婚生活は慢性的な財政難
所帯をもった当初は、土佐に猶という本妻がいました。
寿衛子は、富太郎との間に次々と子どもができ、家計は、慢性的に財政難でした。
その上、牧野富太郎は、自費出版や旅行などの費用がかさみ、そのお金を土佐の実家に融通してもらう日が続いていたようですが、土佐の実家もその費用を借金していたため、借金がかさみ、お店を売り払うまでになったそうです。そして、そのタイミングで、富太郎と猶は、離婚をしたそうです。
寿衛子と富太郎の間には、13名の子どもが生まれましたが、7名育ったそうです。
長女・香代 次女・鶴代 長男・春世 次男・百世 三男・勝世 三女・巳代 四女・玉代
牧野富太郎の実家が倒産した後は、寿衛子がお店を出して一人で切り盛りをして生活費を出したりして、富太郎が安心して研究に打ち込めるようにと心を尽くしたそうです。借金の取り立てが来ると家の外に赤旗を立てて博士に知らせ、博士は借金取りが帰って赤旗がなくなるまで外で待っていた、というエピソードがあるそうです。
寿衛子の内助と、富太郎に援助の手を差しのべる人々のおかげで、牧野家は苦境を脱し、大正15年には大泉に引っ越しをしました。寿衛子はここに立派な植物標本館を建て、牧野植物園をつくりたいという夢を抱いていたそうです。
牧野寿衛子の手で夢は、かないませんでしたが、子孫がその思いを次いで、今は、家のあった場所に「練馬区立牧野記念庭園」として保存されています。
最愛の妻寿衛子の名前を付けた「スエコザサ」
昭和2年 55歳で寿衛子は、亡くなります。牧野富太郎が理学博士の学位を得て、これからというときでした。
富太郎は、最愛の妻、寿衛子をしのび、前年に仙台で発見した新種のササに寿衛子の名を冠し、「スエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)」と名づけました。
出典:https://www.botanic.jp/plants-sa/suekoz.htm
牧野寿衛子の墓は、谷中天王寺に牧野富太郎の墓といっしょにあります。墓碑には富太郎の俳句が二句、亡き寿衛子への限りない感謝と愛情をこめて深く刻まれています。
出典:https://www.makinoteien.jp/
まとめ
寿衛子と富太郎は、お互いに愛し合って過ごしていたようですが、現実は、寿衛子が一家や富太郎を支えていたようですね。
寿衛子は、きっと、富太郎が研究に没頭できる環境をつくることが寿衛子の幸せだったのでしょうね。
結婚しようとしたとき、土佐に妻がいると聞いたとき、びっくりしたことでしょうね。それでも富太郎といっしょになりたいと思ったのでしょうね。