こんにちは。
管理人のpirikaです。
令和5年4月からの放送のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルとなった
牧野富太郎の経歴について調べてみました。
出典:https://www.makinoteien.jp/
牧野富太郎の経歴は?
牧野富太郎(まきのとみたろう)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
牧野富太郎は、「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威です。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。
牧野富太郎は、文久2年(1862年)に佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な商家「岸屋」に生まれました。
3歳で父佐平が、5歳で母久壽くすが病死し、6歳の時には祖父小左衛門が亡くなりました。
祖母浪子によって大切に育てられました。
高知の豊かな自然に育まれ、幼少から植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身につけていきました。酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていたようです。15歳から佐川小学校の「授業生」(臨時教員)としておよそ2年間教鞭をとりました。17歳の時、高知市へ行き、高知中学校の教員永沼小一郎に出会い、新しい科学としての植物学を学びます。
19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を買うため初めて上京します。
21歳の時、本格的に植物学を学ぶために再度上京します。
そこで、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込むようになります。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。
『日本植物志図篇』の刊行したりしますが、研究のため出費がかさみ、博士の実家の酒蔵は倒産してしまいます。
その後、帝国大学理科大学助手として招かれることとなります。しかし、経済的に苦しく、教授おとうまくいかなくなったりする中、精緻を極めた植物図を収録した『大日本植物志』が刊行されました。
大正15年(1926年)に北豊島郡大泉村(現在の練馬区東大泉)に引っ越しをして、死ぬまでそこに住んで研究をしていました。ここは、現在、練馬区牧野記念庭園となっています。
昭和2年(1927年)に周囲の声もあって牧野富太郎は理学博士の学位を受けます。
翌昭和3年、牧野富太郎に献身的に尽くしてきた妻の壽衛子(すえこ)が亡くなります。富太郎は、感謝の思いを込めて、仙台で発見して間もないササに妻の名前をつけることにしてスエコザサと名づけました。
また、10年をかけて『牧野日本植物図鑑』(北隆館 1940年)を完成させます。
牧野富太郎は、90歳ごろからは、庭に移植した植物を観察・採集したり、標本を整理したり、時に、訪問客と尽きることのない植物の話題に花を咲かせていたそうです。昭和32年(1957年)1月18日に満94歳で亡くなりました。
94年の生涯において収集した標本は約40万枚といわれ、蔵書は約4万5千冊を数えます。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。
現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。
その他にも1953年東京都名誉都民となり、1957年文化勲章を受章しました。
牧野富太郎の家族は?
牧野富太郎の最初の妻は、牧野猶(まきの なお)という女性です。牧野猶は牧野富太郎の従妹で、実家の造り酒屋を手つだっていました。
牧野富太郎にとっては望まない結婚だったためすぐに離婚したという話もあります。
2度目の妻が小沢寿衛子です。牧野富太郎の東京麹町の下宿から大学に通う道に菓子屋がありました。牧野富太郎は酒もタバコも飲みませんでしたが菓子が大好きで、その菓子屋に目を止め、そこにいた美しい娘小沢寿衛子に人目ぼれをしました。
出典:https://www.makinoteien.jp/
寿衛子との間には、13名の子どもが生まれましたが、育ったのは、7名でした。
長女・香代 次女・鶴代 長男・春世 次男・百世 三男・勝世 三女・巳代 四女・玉代
牧野富太郎の実家の酒蔵が倒産した後は、寿衛子がお店を出して一人で切り盛りをして生活費を出していたそうです。貧乏で時には、ごはんにお醤油をかけて終わりというときもあったそです。
寿衛子のお店が成功したおかげで牧野富太郎は、研究にも専念できたようです。
牧野富太郎の子孫は?
7名のうち、2名には、孫やひ孫がいるようです。
そのうち、次女 鶴代さんの孫が牧野一浡(まきの かずおき)さんです。
牧野一浡(まきの かずおき)さんは、牧野富太郎が居所としていた練馬区東大泉にある練馬区立牧野記念庭園の館長をされています。
練馬区立牧野記念庭園は、東京の牧野富太郎の住んでいた家を次女の鶴代さんが練馬区に寄贈してできたもので、住んでいた家の一部も保存されています。
まとめ
4月からのNHKの連続テレビ小説「らんまん」のモデルは、牧野富太郎です。
牧野富太郎は、高知県佐川町出身ですが、植物学に出会って、どんどん植物にはまっていくようですね。
牧野富太郎に関する施設は、高知市と高知県佐川町と練馬区にあります。
練馬区の牧野富太郎記念庭園は、牧野富太郎の描いた植物画が展示してあったり、お庭には、たくさんの種類の植物が植えてあります。牧野富太郎は、最後の時期、このお庭の植物をみて過ごしていたそうです。
コメント