こんにちは
管理人のPirikaです。
2023年後期の「ブギウギ」のモデルは
ブギーの女王 笠置シヅ子。
ということで、今回は、
笠置シヅ子について調べてみました。
出典:https://columbia.jp/artist-info/kasagi/prof.html
朝ドラモデル笠置シヅ子の幼少期は
笠置シヅ子
(芸名 三笠静子 → 笠置シズ子 → 笠置シヅ子)
本名 亀井静子
生年月日 大正3年8月25日
(昭和60年(1985年)3月30日没)
出身地:香川県大川郡相生村
(旧:引田町・現:東かがわ市)
静子は、生後間もなく父親がなくなりました。
母親の乳の出が悪く、
近所に大阪から里帰り出産していた米屋の妻に
もらい乳をしていました。
その後、静子は、その女性の養女になって
大阪に住むことになります。
朝ドラでは、銭湯が実家になっていますね。
静子は、小学校を卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験します。
静子は、歌や踊りには自信があったようですが、
身長が低く、痩せていたので
厳しい学校生活に耐えられないだろうという理由で
不合格になったようです。
三笠静子から笠置シズ子へ(舞台女優からジャズ歌手へ)
1927年
大阪松竹楽劇部(OSK日本歌劇団の前身)に入り、
三笠静子の芸名で娘役とし初舞台を踏みます。
1935年(昭和10年)に昭和天皇の末弟である澄宮崇仁親王が「三笠宮家」を創立したのを機に、「笠置 シズ子」へ改名しました。
その後、作曲家・服部良一と組んで
ジャズ歌手として売り出します。
出典:https://columbia.jp/kasagi/
しかし、戦時中ゆえ、派手な化粧と踊りは、
当局に目をつけられ、たびたびの公演中止を
余儀なくされ、各地で慰問活動をするようになりました。
その傍ら、「弥次喜多大陸道中」という映画の主演をしました。
恋に落ち、出産までのシヅ子
1943年6月、笠置シズ子は名古屋で公演中だった
先輩役者の楽屋を訪ね、そこで吉本興業の創業者の次男
吉本穎右と出会い恋に落ちます。
当時、吉本穎右は大学生(19歳)
シズ子は、9歳年上だったそうです。
吉本穎右の母、吉本せい(吉本興業創業者)の
反対があったが、シズ子が妊娠していることが分かり、
結婚へ向かいました。
朝ドラ「わろてんか」でこの場面もありましたね。
吉本穎右は、1947年(昭和22年)5月に
23歳の若さでシズ子と入籍しないまま、
急逝してしまいます。
シズ子は、吉本穎右が亡くなった数日後に
長女エイ子を出産しました。
エイ子の名前は、吉本穎右が決めていたそうです。
シズ子は妊娠中に、舞台「ジャズ・カルメン」への出演を最後に引退を考えていましたが、
まわりから引き止められ、
また、一人娘を育てていかなくてはいけないと
乳飲み子を舞台袖において現役を続行したそうです。
当時、スターがシングルマザーというのを
公にすることは少なかったので、
戦後のシングルマザーたちの共感を得ました。
笠置シズ子の後援会は、そんな女性たちが支えていたそうです。
「東京ブギウギ」の大ヒットから女優へ
失意の中、昭和23(1948)年1月に発売した
「東京ブギウギ」が大ヒット。
出典:https://columbia.jp/kasagi/
当時、笠置シズ子は、“ブギの女王”と呼ばれました。
そして、そのころ、美空ひばりが「東京ブギウギ」を歌って世に出てきます。
笠置シズ子は、昭和32年に歌手を引退します。
引退理由は、ブギが下火になってきたのと、以前のように歌って、踊ることができなくなったためとのちに本人が言っていました。
美空ひばりの登場で世代交代も感じたのかもしれませんね。
その後は芸名を笠置シヅ子と改めて女優として
晩年まで芝居やテレビドラマなどで活躍しました。
ただ、女優になってからは、一切歌は歌わなかったそうです。
俳優としては、
きさくな大阪のおばちゃんのイメージで活躍し、
人気番組『家族そろって歌合戦』の審査員や、
台所用クレンザー「カネヨン」のCMのおばさんとしても
親しまれていました。
晩年は、乳がんが発覚し、手術は成功したものの
卵巣に転移し、闘病しますが、
昭和60(1985)年3月30日、70歳で死去されました。
まとめ
笠置シズ子は、波乱万丈な人生だったようですね。
自分が養女だったことは、
大きくなるまで知らなかったそうです。
今回の「ブギウギ」は、以前の朝ドラ「わろてんか」とも
リンクしていますね。
2023年の後期の朝ドラも楽しめるといいですね。
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