三淵嘉子は日本初の女性弁護士・女性裁判官そして生涯3つの苗字をもった女性【2024年前期朝ドラ】

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こんにちは。
管理人のピリカです。

「ブギウギ」も終盤になってきましたね。
今回は、次の朝ドラ(2024年前期)のモデルになった
三淵嘉子さんについて調べてみました。
三淵嘉子さんは、生涯3つの苗字がありました。

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出典:https://www.meiji.ac.jp/history/meidai_sanmyaku/thema/article/mkmht0000002myit.html

武藤嘉子の誕生から学生時代

武藤 嘉子(後の三淵嘉子)

1914(大正3)年11月13日、台湾銀行に勤務していた武藤貞雄がシンガポールに駐在していたときに長女としてシンガポールで生まれました。
嘉子は、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」から嘉子と名付けられたそうです。

父親がその後、ニューヨークに転勤になり、1920年に日本に戻るまで父親の貞雄と母親のノブはともに香川県丸亀市出身ということで父親の実家のある丸亀で生活していました。
父の武藤貞雄は、旧姓宮武、明治19年生まれ。丸亀中学から一高を経て東京帝大法学部を卒業して台湾銀行に就職。シンガポールやアメリカでの駐在を経験。
そのため、嘉子が幼いころより、「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」と言っていたそうです。

父親が東京勤務になり、一家は、渋谷をへて、麻布笄(こうがい)町(現在の港区西麻布4丁目)に父親と母親、長男の一郎、嘉子、次男の輝彦、三男の晟造、四男の泰夫の6人で住んでいたそうです。

兄弟の中で、一番優秀だったのが嘉子だったそうです。両親が「この子が男の子だったら」とこぼしていたそうです。

嘉子は、東京府青山師範学校附属小学校からお茶の水にあった東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)に進学します。入試は20倍を超えていたそうです。嘉子は、頭もよく朗らかで声もきれい。嘉子のまわりにはいつも輪ができていていたそうです。学校の人気者だったそうです。
1932(昭和7)年3月に東京女子師範学校附属高等女学校を卒業した後、法律を勉強しようと決意します。

嘉子が女学校に在学中の1929年に明治大学が専門部女子部を創設します。
1932年嘉子は、4期生として明治大学専門女子部の法科に入学。1935(昭和10)年3月に卒業した後、さらに明治大学法学部に編入、1938(昭和13)年3月に卒業しました。嘉子は、卒業式で総代を務めたとのことです。男子学生よりも優秀だったのですね。

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武藤嘉子の弁護士時代

1938年11月1日に司法省は、武藤嘉子および同級の中田正子、そして1学年下の久米愛の3人の女性が、高等文官試験司法科に合格したと発表しました(合格者総数242名)。
いろいろな新聞から「女性初の弁護士」として取材を受けたそうです。

『法律新聞』(第4339号、11月8日)は、第一面に「女弁護士登場」として、3人の写真と談話を掲載した。嘉子はインタビューに応えて言う。

之から先の方針も未だ決まって居りません状態です。仮令若し弁護士になるに致しましても職業として立って行くと云ふよりは、只管不幸な方々の御相談相手として少しでも御力になりたいと思って居ります。それには余りにも世間知らずの無力な、空虚な自分を感じます。晩成を期して、学問の上でも、社会の事に就いてももっともっと勉強し、経験を積んでその上での事でございます。そこ迄自分がやって行けますか何うか・・・・・・。只私の望みは仮令何の道を歩むに致しましても夫々の道に応じて、世の為、人の為、自己の最善を尽したいと思ふのみでございます。

嘉子も他の2人も、男女差別の時代風潮に配慮しながら、あくまでも謙虚に、女性のための弁護士、不幸な人々の相談相手という点を強調したコメントを残している。

出典:https://www.meiji.ac.jp/history/meidai_sanmyaku/thema/article/mkmht0000002myit.html

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第二東京弁護士会での1年半の弁護士試補の修習を終え、1940(昭和15)年6月弁護士登録(第二東京弁護士会所属)に登録し、いざ女性弁護士の誕生となりましたが、第2次世界大戦がはじまり、弁護士としての活動はできなくなってしまいました。

1940(昭和15)年7月から武藤嘉子は、母校である女子部法科の助手、1944(昭和19)年8月には同助教授となりました。
1941(昭和16)年11月5日に、実家に書生として出入りしていた和田芳夫(明大卒)と結婚して和田嘉子となります。
1943(昭和18)年1月には第一子芳武が誕生しましたが、和田芳夫は1944(昭和19)年6月に召集され、嘉子は、幼い息子の芳武を養いながら、空襲で家を焼かれて逃げ惑い、さらに福島へ疎開苦しい生活を強いられたそうです。
1946(昭和21)年5月23日、芳夫が上海から引揚途中に長崎で病死します。
和田嘉子は、1947(昭和22)年3月裁判官採用願を司法省に提出します。嘉子は、男女平等な世の中になったのだから、司法官に採用されてしかるべきだと考えたそうです。
しかし、裁判官としての採用は許されず、坂野千里東京控訴院長から、裁判官としての仕事を学ぶため暫くの間司法省に入って勉強するよう勧められ、6月司法省民事部に入ります。
ここでは、民法調査室に所属して、民法・家事審判法の立法作業に関わり、最高裁発足後は、事務局民事部第三課(→家庭局)で親族法・相続法・家事審判所の問題などに携わったそうです。

1949(昭和24)年6月東京地裁民事部の判事補に任用されました。
和田嘉子は、約6ヶ月にわたり、アメリカで家庭裁判所を視察します。
1952(昭和27)年12月名古屋地裁に転じ、初の女性判事となります。次いで、東京地裁・同家裁に移り、民事裁判・少年審判を担当しました。

和田嘉子は、「私は男女が差別される時代に育ったせいか、建前論を主張するよりは女性が実績を上げて社会を納得させることが大切だ」と考えて執務に励んだと言われています。

三淵嘉子として家庭裁判所の仕事

1951(昭和26)年4月明治大学短期大学兼任教授、
1965(昭和40)年4月から1972(昭和47)年まで同兼任講師を務めました。
1956(昭和31)年8月、和田嘉子は、最高裁調査官であった8歳年上の三淵乾太郎と再婚して、三淵嘉子となります。乾太郎は、前妻を病気で亡くし、1男3女の子どもがいました。
三淵嘉子は、実子の芳武も含め、2男3女の母となります。
1972(昭和47)年6月、三淵嘉子は、新潟家裁所長に女性初の裁判所所長として就任します。次いで1973年11月から1978年1月まで浦和家裁所長・1978年1月~1979年11月まで横浜家裁所長まで就任し、11月13日に定年退官します。

横浜家庭裁判所在任中には、
嘉子は、家庭問題に深刻な悩みを抱えた人々の心を少しでも和ませようとの心遣いから、薄汚れていた調停室の壁を明るい白に塗りかえ、壁に絵をかけ、カーテンを新調し、昼休みには廊下に静かな音楽を流すようにしました。

また、少年事件や家事事件について一般社会に関心を持ってもらうため講演活動も積極的に行ったそうでうす。少年問題は家裁に送られる前に家庭や社会が少年問題に理解をもって協力することが肝心であると考え「家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱うところではない」「家裁の裁判官は、社会の中に入って行く必要がある」との信念からでした。

三淵嘉子は、法制審議会民法部会委員、日本婦人法律家協会会長を務め、退官後は、弁護士(第二東京弁護士会所属)を開業する傍ら、労働省男女平等問題専門家会議座長、東京家裁調停委員兼参与員、東京都人事委員会委員、労働省婦人少年問題審議会委員などの要職を歴任しました。

1984年5月28日死去、享年69歳。6月23日に青山葬儀所で行われた葬儀と告別式には2千人近い人が訪れて、別れを惜しんだそうです。

短期大学創立50周年記念講演で、三淵は、学生たちに静かに語りかけている。
(戦後に華々しく社会的活動を始めた女性たちのうちエリート意識が強い人たちがいるけれども)女子部の人たちはエリート意識を持ちませんでした。大学で法律や経済を学ぶこと自体、社会から白眼視されていたのですから、エリート意識は持てませんでした。自分に力をつけて、そして人間らしく生きていこうという気持ちが強く、職場でも地味に働いていました。私は、今でも皆様方にエリート意識など持って欲しくないのです。あなた方がどこに出ても一人前の人間として自立していくという、この明大の伝統を、これからも受け継いでいっていただければ本当にうれしいと思います。
時代を切り拓き、懸命な努力を重ねてきた女性法曹の先駆者ならではの、強くかつしなやかな生き様が感じられる。
出典:https://www.meiji.ac.jp/history/meidai_sanmyaku/thema/article/mkmht0000002myit.html

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まとめ

三淵嘉子さんの人生は、父親の影響を受け、当時としては珍しく女性も自立するべきなので職業を持つべきと弁護士の道へ進んだようですが、女性初の弁護士として、常に注目されていたようで、それは、それでかなり大変だったようです。のちに嘉子の弟が「ここの家、女だてらに法律を勉強してるんだって」と噂していたと語っていました。嘉子本人も久しぶりに会った知人に近況を報告すると、変わり者という表情で、こわいなあと言われることが多かったそうです。
他にも今では考えられないくらいの職場での男女差別があったそうですが、戦後の子どもたちが生きていける環境を整えるために家庭裁判所の設置に努力したそうです。その後、家庭裁判所では、離婚問題や青少年の非行などの問題も取り上げました。

2024年4月から三淵嘉子をモデルとした朝ドラ「虎に翼」が始まりますが、楽しみですね。

 

 

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